85.導き

 坐禅中、意識も身体も光の中にいた私は、鐘の鳴る音でゆっくりと目を開けた。そして、

「お疲れ様でした。」

と住職の一言で私は永い眠りから覚めたかのように我に返った。
三十分ほどの坐禅と言われていたが、とても遠くから帰って来たようなとても長い時間が経ったような感覚だった。
住職は、再び冷たいお茶を用意して下さり、

「如何でしたか。
お二人共、初めてとは思えないくらいとても良い坐禅だったとお見受けいたしましたが。」

と言われた。私はお茶を頂きながら、住職に

「今までにない特別な体験が出来ました。
こころも身体も清々しく透き通った感じです。
それと、初めての体験なのになぜか記憶の奥と言うべきか、遠い昔に経験したことがあったような感覚があるのが不思議でした。」

と言うと、住職は、

「そうでしたか。それはもしかしたら魂の奥底にその経験が刻まれていたのやもしれませんね。今のような坐禅は、ご自宅でも簡単に出来ますのでお二人ともお続け頂くことをお勧め致します。きっといろいろなことにお気付きになることがあるかと思います。」

と言われた。
私はなぜか住職に、

「ご住職、ご質問してもよろしでしょうか?」

とお伺いをした。住職は、

「何なりとどうぞ。」

と言われ、私は唐突に、

「一体この世の中は何なんでしょうか?」

と、質問をした。なぜそのような質問をしたのか分からないが今思うと不思議である。自分でもわからないが、思わず口に出してしまったのはこの住職だから出た言葉なのだと思った。住職は、そんな突拍子もない質問にも全く動じず、

「何だと感じますか?
私は、お二人の坐禅をそばで見ておりましたが、お二人ともご自身の奥底ではすでに分かってらっしゃると思います。
お二人共、人間として行うべき正しい道筋を知っています。ですから、私がそのご質問にお答えせずとも自ずとその答えというか意味が自覚できるときが来ますからそれまでこの世の中というものを経験し考え続けてみてください。必ずそこに気付くときがまいります。
そのためにも、今行ったような座禅をこれからも続けていかれるとよろしいかと存じます。」

と言われた。私はただ、

「わかりました。
今日は大変ありがとうございました。」

と坐禅体験のお礼を言い、私達二人はお寺をあとにした。
まだ明るいがだいぶ日も落ちてきたため、私達は何処にも立ち寄ることなく宿泊場所に向かって歩いていった。
帰り際、宙美が、

「あ!
あなた、坐禅の体験料払ってないわよね!?」

と突然話してきた。私は、坐禅後の余韻のなかすっかり体験費の支払いのことを忘れていたのである。私は、

「先行ってて、お寺に戻って払ってくる。」

と言い、宙美をおいて急いでお寺に走って戻った。しかし、すでに山門は閉まっていた。私は仕方なく今日支払うのは諦め、明朝改めて伺うことにした。

 私達は旅館に到着後、温泉に浸かりまた夕食には美味しい山菜や川魚などを食べ心も体も癒やされとても良い一日を過ごすことが出来た。部屋ではすでに布団が敷かれており、私達は布団の中で寝ながら坐禅の話になった。私は宙美にどうだったか感想を聞くと、

「私、没入していたの。
何か光の玉の中にいるみたいで、意識は宙に浮いているみたいだった。
初めての経験なんだけど、あなたがご住職に話していた感想と同じで、初めてでないような不思議な感覚だったわ。」

と宙美は話した。私は、

「宙美も同じ感覚だったんだ。
本当、不思議な体験だったね。」

とひたすら、お互いの感想や感覚など話しているうちにいつの間にか私達は寝てしまった。

 翌朝は早めに起床した。朝食前に早朝の散歩をするためと出来れば昨日の禅寺に体験料を支払うためである。
 私達二人は旅館を出て数件しかない小さな温泉旅館街周辺を散歩していた。僅かに匂う硫黄の香りと所々から出ている湯けむりが何か味わい深いものを感じさせていた。朝日が出る前で遠くが少し霧がかかっていたが、しばらく歩いているうちに霧が晴れ空は昨日同様雲ひとつ無い快晴でとても気持ちのよい朝だった。宙美が、

「そろそろ、お寺に行きましょうよ。」

と言うので、そのまま昨日の禅寺に向かって歩いていった。お寺のある小山に近づき、

「こちらから向かって歩いていくと確かにお寺への石段や山門が木々に隠れて存在がわからないね。昨日、丘に向かって歩いているときに気が付かなかったはずだ。」

と私が話すと。宙美が、

「昨日のご住職、起きてらっしゃるかしらね?」

と言うので、

「さすがにお寺の朝は早いからきっと起きられてるでしょう。
朝のお勤めでお邪魔になるようならまた帰りに寄ってもいいしね。」

と私は応えた。私達は昨日同様石段を上っていき、そして山門をくぐった。宙美が、

「今日は本堂の扉開いてるわよ。
奥の方に蝋燭の明かりが見えるわ。
輝いて光って見えるのがきっとご本尊よね。」

と本堂に向かって話していた。私も本堂を確認しそこから庭園全体に目を移すと、そこに庭の手入れをしている住職の後ろ姿が目に入った。