死に化粧をして、自宅の布団の上でお線香を絶やさず見守っていたときのことである。高田弘子さん、妹の鳥羽里美さんは、お参りをしてくれた。姑にとって、デイサービスでお世話になったお二人である。私と高田さん姉妹で、なつかしく思い出話をしていた時のこと。死に化粧した義母の口元、右の口角が、なんと驚いたことに、動きはじめたのである。かっかっかっという具合。わずかではあるが、リズミカルに確かに動き続けているのだ。あまりの出来事に、驚き、目を凝らして、高田弘子さんと私と妹の鳥羽さんの三人は一瞬言葉を失った・・・
2024年4月。姑が亡くなった時のはなしである。88歳だった。さっぱりとした気丈な性格で、わが夫、夫の姉と妹。三人の子供を育て上げ、晩年は妹夫婦にお世話になったが、自立心の強い人だった。がんが発覚し余命半年といわれ入退院は繰り返したが、最後まで気丈にふるまった。入院中の別れとなってしまったが、最後のひと月は一日も欠かさず私はオイルトリートメントに通った。寝返りできない重い体を横むかせ背をさすり、口の中をガーゼで拭い、冷たく浮腫んでパンパンになった足を、湯たんぽで温め、オイルでマッサージ、結婚して32年、いろいろの思い出を話しながら、時に反発や素直にはなれない事もあったけれど「ありがと」「頼んどかよ」「あんたはえらいなあ」と温かい言葉をかけてくれた。私は精一杯、素直な気持ちで義母と過ごした。2024年4月21日、温かな日曜の昼下がり、子や孫たちに見守られ、静かに病院のベッドで息を引き取った。皆がそろう偶然があり、臨終を告げた医師さえ孫娘の友人で、生前会いたいと言っていたのも不思議な縁だった。
そのあと自宅に戻った時が、冒頭の光景である。驚くなかれ、死んだ後、口が動いた、そして高田さん姉妹を通して語られたのは、驚くべき義母の言葉。わが夫と姉妹の長年にわたる確執を和解させる大仕事を成し遂げる話へと発展する。