最近は、道路を走っていると車の前方にキツネらしき姿が、現れるようになりました。最初は犬かとも思いましたが、しっぽが茶色のフサフサとした形に思わず目がひかれ、車を止め逃げかけた姿を目で追うと、横道の2~30メートル向こうで、振り返りこちらを見ています。思わず、「お稲荷様に、ご鎮座したら似合うお姿ですね。」と、思ってしまいました。世の中は荒んでいますが、お狐様の出現で、こちらの気分は上昇します。げんきんなもので、それはお金にご縁がある眷属だからでしょう。今後とも宜しくお願いしますと思いながら、アクセルに切り替えました。
さて、「がん」の疑い事件も一段落着して、頭に残るのは「闇のことばの主」ということです。私たち人間と言う生き物は、生まれてから死ぬまで認知という観点から見れば、ことばの海の中にいる存在です。人間は母の胎内の羊水期からすでに音波でことばを得て、やがて母体から離れてからは、大気の中でありとあらゆることばを耳にして生きていきます。更には、ことばに含まれるエネルギーも付随して体内に入ってきます。そして、生きた人生時間の中で、どれだけ正しいことば使い、更にそのことばの音エネルギーを使って会話が出来ていたかと考えると、正直そら恐ろしいものがあります。自身の子供のころの作文を読んでみると、まだ純粋なことばとして発せられているような気がします。成長をするにつれ、自我の損得を計算し心ないことばや仕事上で意に反することばをどれだけ使ってきたかと思い出されます。そして、今だから分かる事で、そのことばの音霊のエネルギーが身体のどこかにレコードされているかと考えると、宇宙のルールから見れば言葉のエネルギーが清算されるのは当たり前という事になります。
そこで最近とみに思うのが、不思議な言葉使いです。特に、子ども達から聞く言葉に、違和感を持つ場面がよくあります。例えば、クリーム・ソーダのことばを略してクソだそうです。これはすでに三十年ほど前から使われているようで、ビックリでした。コンビニはビイコン。まるで、暗号のように子供たちの間では通用しています。
次に、友達や親、更には先生をあだ名で表現をして交流しています。特に、両親への表現がお父さんやお母さんということばは古いらしく、名前を略して、父の正雄という名を「マサりん」と、子どもが呼んだりしているのを耳にします。但し、家でのポジションの都合上か、お母さんはママと呼ぶのが多いようです。更に、友達や先生においても同じで、友達は親しみを込めて作られるあだ名と、弱い者いじめが根底にあるあだ名とで使い分けされているとか。更に、昔なら先生を面とむかってあだ名呼びで会話をするなどはありえず、近年は親近感を持ち接する方法の一つなのでしょうか。
また、英語交じりの言葉で「ドンマイ」というのがあります。スポーツなどでミスをしたら、周りから「ドンマイ、ドンマイ」と言われて「構わないよ」とか「大丈夫だよ」という励ましの意味で使われていますが、最近は「残念でした」とか「あーあ、お前のせいで」という意味を醸す言葉で使うと子ども達から聞き、これもビックリしました。同じ言葉でもその言葉の奥にあるエネルギーですでに、子どもたちがゲーム感覚で叩き合いをしているようです。
子供は神様からの預かりものというスタートを忘れて、どんどん家庭教育の役割が薄れているのが、言葉使いという一つに現れているように伺えます。勿論、家庭だけでなくそれに続く教育現場も然りです。せめて、日常のことばから見直し、人としてという所に立ち返ることで、「言霊の幸はふ国」へと戻りましょう。
「おっはー」ではなく、「おはようございます。」
「ご馳で~す」ではなく、「ご馳走様でした。」
「ドンマイ」ではなく、「大丈夫だよ。」
子守歌に「坊やは 良い子だ 寝んねしな」とありますが、毎日「よい子」「よい子」の言葉を耳にすれば、言霊が身体に入り成就するのがこの国と言われています。一つ一つ精査して正しい言の葉を使う人間として、生きる道を歩みたいものです。
